上京20周年
2019年9月9日
本日、上京20周年記念日。1999年9月9日、AIR-DOに乗って東京にやって来た。JALでもANAでもなく、1996年に設立された「道民の翼」AIR-DOを選んだ。
上京した理由は、雑誌のライターになりたかったから。
住んでいた札幌ではなかなかそういう仕事がなく、「出版業界で働きたければ東京に出ないと無理」という時代。地元の雑誌もあるにはあったけれど、わたしがやりたかった女性誌はなかったので、「よし、東京行こう」とあっさり決めた。23歳かあ……。若かった。
今日の東京は36°C。猛暑である。20年前の今日の東京もものすごい暑さだったことを覚えている。
札幌から来たわたしは、まだ引越しの荷物が届いていないため渋谷のホテルに泊まったのだけれど、あまりの暑さと湿度に体がまったくついていけず、20分おきに休憩しないといけないくらいまともに歩けなかった。何度だったんだろうと調べると、20年前の札幌の最高気温が29.4°C、東京が33.5°C。こんなことを調べられる便利なサイトがあったとは。20年前はインターネットが一般にも普及し始めた頃で、Yahoo!JAPANがサービスを開始した年。
過去の天気
https://weather.goo.ne.jp/past/
渋谷で入ったのは、忘れもしないスターバックスだった。1996年に日本に上陸し、まだ札幌にはなかった頃。「これがスタバかー」と思いながら、ラテか何かを注文した。AIR-DOとYahoo!JAPANとスターバックスジャパンは同期だったのか。
あまりの暑さと湿度で「こんなところでほんとうに暮らせるのだろうか」と心から思った。20分おきに休憩しないと辛くて歩けもしない東京で。札幌も29.4°Cあったけれど、カラッとしているのでそこまで暑さは感じない。この記事もいままさにスタバで書いていて、20年前と今日、同じスタバでラテを飲んでいても、ずいぶん状況が変わったなあ…と、しみじみと思う。
1999年に初めて買ったパソコンはiMac。ああ、懐かしのボンダイブルー。インターネットは札幌のFMラジオ局に勤めていた97年から局のPCで使っていたので、早いほうだったと思う。でも、Yahooで検索してもまだろくな情報がヒットしなかった。
「ボンダイブルーの初代iMac、20周年を迎える。Appleの歴史はこれをなしに語れない」
https://www.gizmodo.jp/2018/05/imac-20th.html
この大きなiMacが、こんなに薄くて軽いMacbookになる時代が来るなんて。
「ピーーーヒョロヒョロヒョロ」と電話回線でつないでいたインターネット。テレホーダイが登場し、ADSLになり、Yahoo!BBがモデムを配りまくり、光回線へと移行し、それが今やWi-Fiですよ。
最初に持った携帯電話はJ-PHONE。ジェイフォンからボーダフォン、そしてソフトバンクへと変わり、ガラケーからiPhoneへ。手のひらにPCを持っているようなもので、先日機種変更したXSの写真の美しさにはびっくりした。雑誌の見開きにも耐えうるクオリティ。20年前、カメラマンはフィルムの時代だったというのに。ルーペでポジをチェックしていたというのに。
20年前から使っているもので、「まだ現役のものはあったかな」と考えた。現役どころか、まるで違う使い道でわたしの仕事のひとつ「だし愛好家」まで昇華したものがあった。忘れもしない20年前、SEIYU西荻窪店で買った麦茶ポットだ。
20年前に麦茶を作っていたポットで、今は昆布だしをとっている。水1Lに昆布20gを入れ、冷蔵庫で1〜2晩おくだけ。
どんだけ物持ちいいのかって話だが、まさかあの麦茶ポットが昆布だし専用になり、『だし生活、はじめました。』という本を出し、だし愛好家として活動する日が来るなんて信じられない。
全然料理が作れなかったのに、この20年でずいぶん作れるようになった。
『週刊文春WOMAN』では、だし特集を組んでもらうまでになり、発売中の最新号(vol.3)ではイラストにもなった。
表紙のイラストは香取慎吾によるもの。まさか自分が香取慎吾が描いた表紙の雑誌でだし特集を組まれるなんて、自分にもまったく予測出来なかった未来である。
そして「高校野球ブラバン応援研究家」として、ついにナンバー1スポーツ雑誌『Number』で書かせていただく機会に恵まれた。
Number webでは何度も書かせていただているのだけれど、本誌でブラバン応援に4Pも割くのは初めてのこと。子どもの頃から大好きな習志野高校吹奏楽部を、コンクールではなく野球応援で取材し、吹奏楽雑誌ではなくスポーツ雑誌に掲載される日が来るなんて。
札幌時代に一度も円山球場に行ったことのなかった自分が、”聖地”甲子園で全出場校を観戦し、吹奏楽の応援のことを発信する日が来るなんて。
ライター目指して23歳で上京し、雑誌編集の仕事に就くことが出来たのが25歳。20年前、何のあてもなく知り合いもいない東京に来て、20分おきにスタバで休憩しないと歩くことすら出来なかった自分が、2年後に編集者になれて、その10年後の35歳で初めての著書『吾輩は看板猫である』を出版。
何で猫の本を出し、『終電ごはん』や『だし生活、はじめました。』などの料理本を出し、『ブラバン甲子園大研究』というまるで毛色の違う本を出すようになったのか。
もう、わたしも「なんでこうなったんだっけ」と思わず振り返りたくなるのだが、確実にいえることはただひたすら「目の前の仕事に全力で向き合ってきた」から。それと、「人とのご縁」に尽きる。
世の中、何が何につながるかわからないものだなあ…と、心底思う。
20年前はSNSなんてなかった。
2004年にmixiが始まってちょっとやってたけれど、2010年にTwitterに移行。Facebookもやってたけれどやめた。Instagramはたしなむ程度。SNSで、自分の仕事もずいぶん変化したなあ……。
雑誌の仕事のデータも、昔はフロッピーディスク。次にMO。デジタルが当たり前になり、メールに添付したり、CD-Rや宅ふぁいる便などを使うようになり、今やデータ入稿が当たり前。Drop boxを使うようになり、甲子園で高校生から応援曲リストを「Air Dropで送りましょうか?」といわれる時代。紙じゃなくて画像をAir Dropよ……!
この20年、仕事もインターネットもガジェットも、とても多くのことが変わったなぁ……。世の中変わったなぁ……と思わずにはいられない。
そして20年後、何をしているのかまったくもって想像がつかない。
これからも目の前のことに全力で向き合い続けるのみ。
まじめにコツコツ進んでいこう。
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