三井芦別炭鉱の子どもたち

2019年12月1日

昨日は、1年ぶりの「西芦会」。めちゃくちゃ楽しかった〜!

西芦=西芦別。
12歳までを過ごした、北海道芦別市西芦別町の幼なじみたちとの集い。


みんな父親が炭鉱マン。西芦別小学校出身

西芦別は炭鉱の町で、父親はみんな三井鉱山の三井芦別炭鉱で働いていた。母親同士もほとんどつながっていて、思い返しても濃密なコミュニティ。生徒のほぼ全員の父親が同じ会社で働いているって、今考えればすごいこと。

昨日のメンバーも、1こ下や弟の同級生の2こ下、もう1こ下の隣に住んでた子とか。

親の出身地もバラバラで、九州、東京、芦別が多いかな。うちは九州。

わたしともう1人の女性の直子ちゃんは、赤ちゃんの頃から一緒の超幼なじみ。ピアノも一緒に習ってた。ちなみに、ピアノの先生は、わたしが監修していた漫画『青空エール』の作者・河原和音先生の父、河原裕康先生。アフロヘアにチョッキが定番だったな。

我々が子どもの頃、炭鉱はすでに斜陽産業で、1992年に閉山。高校生の時だった。小学生の頃も、しょっちゅうしょっちゅう友達が転校していなくなり、同じ学年の子は20人くらいだったかなー。

閉山に向かうにつれ、どんどん人数が減っていったのだけれど、とても楽しい毎日だった。みんな社宅、いわゆる炭鉱住宅に住んでいて、学校でもプライベートでも距離がとても近い。

わたしが中学1年で札幌に引っ越したのは、父親が「東京か九州に転勤になるかも」という話があったから。先に転勤していった仲間の親から、「勉強についていくのがいかに大変か」という話をさんざん聞かされており、ある日両親に呼ばれて家族会議。

「うちは転勤するかもしれないけど、札幌にいくか本州に行くか、どっちがいい?」

と選択を迫られ、姉もわたしも、夏休みと冬休みにいつも遊びに行っていた札幌の祖父母の家に住むことを選択。弟はまだ小学生だったので、そのまま残留。わたしは中1、姉は中3の春から札幌の中学校に通うことになった。んで、たまたまその中学校が吹奏楽の強豪校で、部活にのめり込み、いまやってる「高校野球ブラバン応援研究家」という趣味のような活動につながるきっかけとなった。

そんな風にみんな転勤したり、年頃だったので兄弟は札幌に行き、親は本州に行ったりと、家族がバラバラになるケースが多く、どの家も大変だっただろうなあと。昨日のメンバーは、わたしが札幌に引っ越し、3人が千葉に転勤、2人が芦別残留。結局父は最後の残務処理などで転勤にはならず、その後は市内のほかの会社で働くことになり、定年後は札幌に引っ越して家を買った。なので、わたしの実家は札幌。優しくて好きなことを何でもやらせてくれた父は、9年前に亡くなった。

そんなわけで、彼らとは10年くらいしか一緒じゃなかったんだけど、子どもの10年間ってめちゃくちゃ濃かったんだろうな〜。石炭くみに行く学校の廊下が凍てつく寒さのあまり「シベリア廊下」と呼ばれてたとか、みんなで風呂に行ったとか、誰々がやんちゃで手がつけられない荒くれ者だったとか、隣町の中学生とタイマン張ったとか笑。

軟式野球チームの「三井芦別ブラックスネークス」に入っている子が多くて、昨日も3人。当時すごい強くて、北海道大会で優勝してた。高校時代に甲子園に行った幼なじみもいたなあ。

野球経験者が多かったので、みんなわたしが今高校野球の応援を取材して本を書いていることとかもなんとなく知っている。「テレビで見たよ」とか、「いつもYahoo!ニュースで有希子さんの記事見てる。うちの奥さんもファン。いま完全にファン目線」とか笑。


「ファン目線」のとおる! お前うちの隣に住んでただろ笑。

千葉に転勤した3人、みんな野球経験者だから千葉の高校野球事情にすごい詳しくて、さらりと「拓大紅陵が〜」とか「習志野の美爆音すげーよね」「あの頃は市船が強かった」とか、じゃんじゃん出てくる。
そんな10代の頃から見てたのね。若かりし頃の紅陵吹奏楽部顧問・吹田先生とか近くにいたのね笑。当時の習志野高校吹奏楽部は、石津谷先生の前任・新妻先生の時代だね。

わたしが札幌の中高で吹奏楽部の活動に打ち込んでいた頃、西芦のわが家は弟の友達のたまり場になっていたそうで、「いつも梅津んちでファミコンやってた」と。そんなの全然知らんかったわ。わたしが全国大会目指してた頃、君たちはファミコンばっかやってたのか。

そんな弟の同級生たちから、「すげー母さんそっくり」といわれまくる。うちに遊びに来てた頃の母といまのわたしが同じくらいの年齢なので、余計激似に映るらしい。


ゆっき! 弟の幼なじみ。

わたしが居酒屋で寝ている写真を弟にLINEするのやめろ笑。

いやー、でも10年足らずしか一緒じゃなかったみんなと、40過ぎて東京でこうやって再会できるって、ほんと奇跡的なこと。みんなあんなにバラバラになっちゃって、携帯もなかった時代だから連絡先もわからなかったのに。

「SNSとLINEってすげーよね」という結論。
あと、こうやってみんなをまとめてくれる頼れる貝沼アニキのおかげだと。こうやって大人数をまとめて仕切って幹事ができる能力って、20人に1人なんだって。と、昨日とおるくんが言ってた。へーーー。たしかに2人や3人までならすぐ誘うけど、6人になるとちょっと大事かも。


新大久保にて、初・チーズタッカルビ

いやー、若者の食べ物だね笑。
去年大流行した、のびーるチーズ入りのアメリカンドッグ「ハットグ」も健在だったけど、「ありゃ大人の食べるものじゃない」という結論。2人で1個も食べられない。くどい笑。

炭鉱生活、楽しかったな。家の中寒かったけど笑。冬は朝起きたら部屋の中でも息が白いくらい、外は−25℃とかだったけど、それでも楽しかった。


炭鉱本

原監督のお父さんも三池炭鉱のある町にいたのかー。同じ三井だ。
炭鉱マンの娘なもので、炭鉱ものには敏感。炭鉱町が舞台のブラスバンドの映画「ブラス!」とかね。

あー楽しかった。

またやろ〜!


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2件のコメント

偶然に 三井芦別炭鉱の子どもたち のページを見ました何か懐かしく思い見てました、自分も60年ぐらい前に西芦別に住んでました、その時は小学校5年生までです、今は静岡県の浜名湖の近くで済んでます、昨年旅行で西芦別に立ち寄りました、住んで居た場所には違う新しい住宅が建っており少し寂しい思いもしたけど今もみんな元気で暮らしている様子を感じホットしてます、これからも西芦別を活性化してもらいたいです、ありがとうございました。

by たかぴー on 2024年3月18日 at 2:08 PM. 返信 #

わたしも数年前に西芦別に行きましたが、住んでいた家の付近にはもう立ち入れなくなっていました。
学校も閉校して寂しさを覚えましたが、同級生や知り合いもたくさん住んでいるので、ずっと元気でいてほしいですね。

by 梅津有希子 on 2024年3月20日 at 6:47 AM. 返信 #

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